1947年〜1964年 1947年にロイヤルロッテルダム·ロイドの「Willem
Ruys」として就航。12月5日に処女航海を始め、東インド諸島ルートのライナー
として就航。
1953年に紅海で、Netherland Lines,の「Oranje」と衝突。人的被害はありませんでしたが、損傷修理後、ロイヤルロッテルダム・ロイドは、この船の売却を
決めました・
1959年「Wilton-Fijenoord shipyar」造船所で改装をされ、キャビンの改装とエアコン機器の装備、スタビライザーの装着も行れました。d
1963年に「Greek Line」に売却され、イギリス〜地中海航路に就航。しかし採算性が悪く1964年にロッテルダムに係留される。
1965年にFlotta Lauro Lines(現MSC
Cruisce)に売却決定。船名も「Achille Lauro」と変更。 ジェノバ〜シドニー航路に投入。
しかし、8月29日の爆発火災事故で1966年4月まで修理のためドック入り。
このときに船体が青色に、また特徴的な高い二本煙突に変更され、6年間人気のある船として活躍。
1972年5月19日、ジェノバでメンテナンス中に再び火災事故が起こり、12月まで運行停止。
1974年4月28日ダータネルス海峡で貨物船「Youssef 」との衝突。貨物船「Youssef 」は沈没1人の死者が発生。
1981年にまた火災事故が発生、1982年にはFlotta Lauro Linesが破産し、テネフィラに差し押さえのため係留。
1985年にChandris LineとFlotta Lauro Linesが合併。 1985年10月7日に10日間のクルーズ行いましたが、パレスティナ解放戦線を表明する4人の男に
エジプト沖でシージャックされました。
刑務所に拘留中50人のパレスティナ人の解放を要求。アメリカ人観光客を殺害。シージャック犯の要求を呑み船は開放。
1994年11月30日にソマリア沖で火災が発生。3日間炎上して、1090人の乗客と乗組員は避難。3人の死者が出ました。
そして、Achille Lauroは12月2日に沈没しました。
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